生まれた場所
カトリーヌは1519年4月13日に、メディチ宮殿(現:メディチ・リッカルディ宮殿)で生まれました。
この宮殿は1444年に、(カトリーヌの父方お爺さんのお爺さんのお父さん)国の父と呼ばれるコジモ・デ・メディチの命を受け、建築家ミケロッツォが建設したそうです。
しかし、メディチ家は第一次イタリア戦争(1494年)での対処を誤り、フィレンツェから追放されていました。1512年、後の教皇レオ10世ジョバンニ・デ・メディチによって復帰したとあります。
という事で、カトリーヌが生まれる7年前にメディチ家はこの宮殿に戻ってきた事になります。意外に、ずっと住んでなかったんですね、という印象。
カトリーヌは、生まれてすぐに両親を亡くすものの、教皇レオ10世の策となる1つの手段として大切に育てられました。フランス国王フランソワ1世も後見人として名乗りをあげるものの、却下される。教皇レオ10世がカトリーヌの生後1年で死去したので、レオ10世の姉ルクレツィア(フィレンツェの名門サルヴィアーティ家に嫁いでいた)のポッジョ邸に引き取るように決められたのです。
カトリーヌのお爺さんのお父さん、曾祖父にあたる「豪華王」と呼ばれたロレンツォ・イル・マニフィコ(ロレンツォ・デ・メディチ)は、弟のジュリアーノや2人の妹と共に育てられました。
不思議な事に、庶子たちもメディチ家では一緒に教育を受けたというのです。
ジュリアーノの庶子ジュリオ(後の教皇クレメンス7世)もメディチ家の家族として、カトリーヌの初恋の相手と言われるイッポリートは、カトリーヌのお爺さんの兄弟の庶子ですがやはり同じく家族として、初代トスカナ公アレッサンドロ(カトリーヌの異母兄弟と主張していた)もクレメンス7世の庶子という彼も当然一緒に、当時イタリアではそれほど貴重でなない父系血族関係のつながりで一緒の空間で育っていたようです。一方、フランスでは父系血族関係が重要とされていました。
@catherine1975
カトリーヌは、生まれて間もなく両親を失い、大叔父の教皇レオ10世の保護の元、ローマへ送られましたが、間もなく保護者であった教皇レオ10世急死し、大叔母(レオ10世の妹)のルクレツィア・デ・メディチ(大銀行家に嫁いでいた)と、父の妹であるクラリーチェ・ストロッツィの保護を受ける事になったようです。
1524年、5歳の時にイッポリートやアレッサンドロや家庭教師と共にフィレンツェに戻り、冬はメディチ宮殿、夏はポッジョ・ア・カヤーノの別荘に住んでいたんだそうです。
避難、連れ去りによって変わる環境
1527年頃フィレンツェではメディチ家に対する市民の騒乱が起こりました。その時の枢機卿(パセリーニ)は、カトリーヌをフィレンツェから遠ざける為に、ポッジョ・ア・カヤーノに送った記述かあります。その後、メディチ家のライバルであったオッティマーティと呼ばれるグループが多人数の武装グループを率いて、カトリーヌを奪い、聖ルチアのドメニコ会修道士たちに預けたと言われています。
この辺りの話は本によって描き方が違って、私も読みながら混乱しています。
別の説によりますと、カトリーヌの叔母クラリーチェ・ストロッツィが騒乱の元凶である枢機卿パセリーニを非難し(パセリーニは、アレッサンドロとイッポリートを盾にフィレンツェを収めていたたとも言われていて、市民からメディチ家が嫌悪されるようになっていたので)、クラリーチェはフィレンツェの騒乱の中、パセリーニをアレッサンドロとイッポリートと共にリカルディ宮殿から追い出して(秘密の扉から脱出、暴徒には捕まらなかった)、姪のカトリーヌだけを留め置いたんですが、叔母とカトリーヌは暴徒の捕虜となり、カトリーヌは聖ルチア修道院のドメニコ会修道女に人質として預けられたんだそうです。
この聖ルチア修道院のドメニコ会修道女達は、新体制に好意的でメディチ家を敵視しており、厳しくカトリーヌを監視したと言われていますが、すぐに、ペストが修道院の中にも流行り、重要人物だったカトリーヌは、親メディチ家のベネディクト会修道女にゆだねられる事になりした。
ベネディクト会修道女はムラーテ修道院に存在し、フィレンツェからも政治からもペストからも離れた位置にあり、この場所へ逃げる事ができたのは、フランス大使ヴァーリという人が新しいフィレンツェ元首にカトリーヌを引き取る許可を受けて、12月7日にベールで覆い隠して連れて行ったんだそうです。
大叔母のルクレティア・デ・メディチは、大銀行家のサルヴィアーティ家に嫁いでおり、カトリーヌはサルヴィアーティ宮殿にも居た事があるのではないかと思っています。
下がサルヴィアーティ邸(パラッツォ・シニョーラ)です。イタリアの建築は、外見はわりと無骨ながら内装が美しいのが特徴でしょうか。現在は、ヨーロッパ大学研究所の施設として利用されているようです。
カトリーヌは、フランスにお嫁に行くまでにいろいろな場所で、いろいろな人に囲まれて育ったようです。同じ家にじっとしていられる事を求めてなかったかもしれませんが、落ち着く間もなく教養も身に着けあっという間に嫁に出されるとして、幼い頃から子どもらしく生きる暇は無かったように感じます。
カトリーヌの住まいにまつわる公式ホームページを集めてみました。
サン・ロレンツォ教会
洗礼を受けた教会。
ポッジョ・ア・カヤーノ
避暑する別荘。夏の住まい。
公式ホームページは現在休止中の様子です。そして公開もお休みしているみたいです。
聖ルチア修道院
サン・ガッロ通り沿いにあったと記述のある聖ルチア修道院。
私には探しきれませんでした。
ムラーテ会修道院
サンティッシマ・アヌンツィアータ修道院。
ギベリナ通りの外れにあった。
メディチ家に友好的な尼僧に囲まれてカトリーヌは教養を身に着けたと言われている。
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