ウルビーノ公 ロレンツォ・デ・メディチ
教皇レオ10世の甥
優れた政治家であったとともにルネッサンス芸術の保護者と名高いロレンツォ・イル・マニフィコの孫
1492年9月12日 – 1519年5月4日 享年26歳
1518年6月、オーヴェルニュ伯女マドレーヌと結婚。
カトリーヌが生まれて22日で死去している。
1516年、叔父である教皇レオ10世によりウルビーノ公に叙任された。
ウルビーノ公であったのはたったの2年である。
@catherine1975
フランチェスコ・マリーア1世(故法王ユリウス2世の甥)から公位を短期間だが奪取し、ロレンツォは1万人の兵を要する司令官となった。
ウルビーノ戦争と呼ばれたこの戦いで、いったん負傷してトスカーナへ退却するが、同年9月のうちにウルビーノ公領を再獲得した。
祖父のロレンツォ・イル・マニフィコとは、名前は同じでも似ても似つかぬ器の小さい男と言われ、無能で病弱なくせに派手好みで傲慢、フィレンツェの人々のあいだでは評判がすこぶる悪かったとも言われている。
悪所で移された梅毒のせいで子種をつくる能力を危ぶまれてもいた。
メディチ家は代々生理的な欠陥というか、結核にかかれば容易かつ急速に悪化するし、ロレンツォは、梅毒とその後遺症、また瘰癧(結核性頸部リンパ腺炎)の症状も現れていたという。ロレンツォの死因は奔馬性結核とか、梅毒とか戦場で頭にうけた傷などと言われている。カトリーヌが生まれた日に、彼は既に死を待つばかりだった。
しかしこの頃、生理的な素質よりも家系図と財産が高く評価されていた。
ロレンツォ亡き後、様々な事件を経て、跡継ぎを失ったメディチ家は、祖先をさかのぼり、田舎暮らしをしていた後のコジモ1世を表舞台に立たせる事になる。コジモ1世もまた、カトリーヌと同じ1519年に生まれている。
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