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カトリーヌのデータ

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カトリーヌ・ド・メディシスとは言うものの

カトリーヌ・ド・メディシス Wikipediaより

誕生日 1519年4月13日

出生地 フィレンツェのラルガ通り(現カヴール通り)、メディチ宮殿(通称リカルディ)

名 前 カテリーナ・マリア・ロモラ・デ・メディチ

    同い年の有名人は、夫アンリ2世、コジモ1世、フランソワ(ギース公)、
    ガスパール・ド・コリニー、今川義元、伊達晴宗(伊達政宗の祖父)ですって。
    ロワール川沿いのシャンボール城も1519年着工だそうです。

結婚式 1533年10月23日から3日間イタリア式前夜祭後の27日、結婚誓約証に正式署名 

場 所 マルセイユのプラス・ヌーヴに特別につくられた木製の城と
    プロヴァンス地方の伯爵の根城であった旧城

子ども 不妊に10年悩まされた後、10人の子どもを産んだ。
    フランス王家の歴代の王妃と比べると、10年不妊であれば、修道院に送られたり、
    教会を通し離婚をされるものだが、カトリーヌは守られた。
    第1子を授かって以来11年間に10人もの子どもを産んだとされている。
    1544年1月19日フランソワ2世を産んだ時は、24歳。
    35歳までに10人産む事になる。おそらく、妊娠ばかりしていた10年間となる。

    子ども達は、アンリ2世の愛妾ディアーヌによって育てられた。
    自分で育てる事を許されなかった。

    10人中7人が生きながらえたが、健康状態は良いとは言えなかった。

出典:Julia CasadoによるPixabayからの画像 【1519年着工のシャンボール城】

1547年 義父フランソワ1世が死んだ時は、27歳。第3子のクロードを身ごもった頃かもしれない。

1559年 夫アンリ2世が死んだ時は、40歳。絹の衣装を身に着ける事も無くなり、永遠の喪に服す事になる。「黒衣の女王」と呼ばれる所以である。アンリ2世の愛妾ディアーヌとやっと離れる事ができた。

愛妾ディアーヌからシュノンソー城を取り上げたと面白おかしく書かれる事もあるが、シュノンソー城は王家の所有物だった為、返してもらわないとならず、代わりにもっと条件の良いお城を与えたのが真実っぽい。

3人の息子の日となり影となり、フランスの政治に関わった。王族には珍しく、自分で字を書いた。

1589年 1月5日、ブロア城で息を引き取った。69歳。

1589年 2月4日、ブロアのサン=ソヴィ―ル教会で葬儀が行われた。パリ市街に近づく事が出来ないほど、市民に憎まれていた。

1610年 アンリ2世の最初の娘と言われているディアンヌ・ド・フランスによって、サン=ドニの王族の墓地に埋葬された。彼女は全くカトリーヌの恩恵を受けていなかった。

1793年 フランスの革命家達の手で王族の遺骸が共同墓地に捨てられた。

現在はサン=ドニに祀られている。墓の彫刻は、アンリ2世が亡くなった時に、カトリーヌが造らせたと言われている。

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